日常は遥かに大きくて

月が青白く感じる日は、初めて飼った猫を思い出す。すると、お腹のあたりにぽっかりと穴が現れ、触れた感触が体に甦る。
猫が世界から突然いなくなった日、わたしの日常を死が初めてノックした。

わたしは、4つで、猫も同じくらいの年だった。毛の短い真っ白な猫で、青い目、きれいな雄猫だった。
母はいつも「本当にお利口ね」と猫に言っていた。それは、多くの飼い主がペットに向かって言うセリフのひとつで。賢さというものを当時のわたしには未だ分かってなかったけど、彼の利口さとは何なのか、知りたかった。わたしから見た猫は、人見知りで、おとなしく、穏やかな佇まいがわたしを安心させた。物心ついたときからずっと一緒で、兄弟のように近い気がしていた。一緒に居るのが好きだった。

ある日、取り乱した母の声とともに、訳の分からぬまま近所に住む祖父母の家へ駆けつけた。向かった視線の先にはおじいちゃんが居て、庭で猫を抱きかかえて立っていた。それは、とても、異様な光景で、のどをぎゅっと締めつけるような大きな力が漂っていた。
差し出されたおじいちゃんの両腕には、硬直した猫が勾玉のような格好でうずくまっていて、真っ白なわき腹を横切るように、青い影がそこだけ伸びていた。
瞬く間、何かがわたしのお腹を蹴りつけて腹が抜け落ち、大きな穴を空けた。吸い込まれるように力がするすると抜け、穴の中に自分も呑み込まれてしまう気がした。怖かった。衝撃を一番最初に理解するのは、体なんだ。気持ちや理性が事態に追いつけないまま、おじいちゃんから手渡された猫の体がいつもより重く感じた。そこだけハッキリ、違うことを認識した。両肘がその重みを記憶した。猫と私たちの間には、何の対話もなく、ひとつの世界にいるのに、空は違うみたいだった。

起きた事を理解したつもりでいても、死ぬという事実は不思議の塊で、その日からわたしの頭上に鎮座した。それは何色でもなくて、無表情で語らず、揺れない。自然に存在するものとは真逆に思えた。
それまでわたしは、死ぬということを物語の中でしか知らなかった。死んだらみんな、体ごと消えると思っていたのに、居なくなったのは手の届かない部分だけで。

それからというもの、寝る前は死ぬ瞬間について、ひとり思い巡らす日々が続いたのであった。死が降り立った瞬間、人の心には何が起きているのか。その一瞬に対する好奇心は瞼の裏にべったりと貼り付いて、夢からわたしを遠ざけた。一方で、死ねばそんな思いもさらっと無に帰すのだよねきっとと思うと、やり切れなさと消えてしまう恐怖がたちまち炎のごとく立ち上り、狭い布団の中で右往左往した。

それぞれの思いを眠りが奥へと引き摺り込んで、朝になれば何事もなく始まり、夜になると再びわたしを突き破る。お腹の穴が開いて、そこからあの午後の情景が見えると、身体の隅々から透明になっていく気がした。

どれくらいの夜を経てこの劇場は終演したのか全く覚えてないんだけど、気づいたら考えなくなっていて、それが生きてるんだなってことであり、始まれば終わるのだという誰かが言ったことばに何度も出会いながら今日生きている。

初めて自分以外のことで泣いたあの日、ある日突然、わたしたちはもう会えなくなるんだということを知った。いつもと違うことが、いつもと同じなかで起こるのが死ぬということで。でも、死も日常からは出られない。そう思うと、日常は遥かにずっと大きいものなんだということが、分かる。

両肘も穴も思い出も、もうそれは悲しませるものでは無くなって。右手に残る傷痕と一緒、わたし。悲しみとはそういうものなんだと思う。

生きていればもっといろんなことが起こるけれど、悲しいこと辛いことが切り離すものではなくなったとき、人は多分強くなってる。
そして、変えていけるまた笑える、その強さとしなやかさは身につけるものじゃなくて、磨いていくものなんだと思うのだ。